カテゴリー別アーカイブ: ソバメモ

高遠そば

さて、いつも困るのが高遠そばだ。「そば博物館」の時も「信州蕎麦の源流と伝播そして未来展」を企画した時もこの高遠そばはぜひとも取り上げたい、というか伝播というところで絶対外せない蕎麦なのである。なぜなら、福島県の会津地方には「高遠そば」と呼ばれるそばがある。このそばは、つゆに焼き味噌と辛み大根とネギが入るのが特徴で「高遠そば」と呼ばれる由来は、信州高遠城で暮らした保科正之公が転封で入った会津藩へ高遠のそばを伝えたためと言われており、高遠の一部に伝わる「辛つゆそば」が原型なのである。しかし「そば博物館」企画当時は高遠そばなる蕎麦は高遠町には無いのであった。(今はかろうじて有志が高遠蕎麦を盛り上げようと数軒ある)そこで博物館の時は避けていたが「信州蕎麦の源流と伝播そして未来展」の時は伝播というキーワードがあるので取り上げないわけにはいかなかった。弱っちゃったなあまったく。時は少し過ぎていたし情報としては町の温泉施設を退職したご主人が自宅を改装して高遠そばなるものの復権に情熱を注いでいるという話を聞く程度だったので適当にサラッとお茶を濁して「高遠藩主保科正之公が転封で入った会津藩へ高遠のそばを伝えた」ぐらいに押さえておくしか無かった。いったい本家の高遠の蕎麦職人達はどこへ行ってしまったのか。かつて高遠は領地の一部がそば切り発祥の地とされる本山宿に接していたり、領地内の入野谷がそばの名産地として知られていたことなど高いそば文化が育まれる背景があったがその高いそば文化はどこに行ってしまったのか。川上村の蕎麦のように高原作物に取って替わったのとは少しわけが違うような気がしていた。
それを見事に教えてくれた人がいる。その人に迷惑がかかると困るのであえて名前は言わないがこういう説だ。「あのね、まず保科正之さんは山形最上藩二十万石を与えられた時困っちゃったんだね。ほら高遠は三万石しかないでしょ。その三万石から二十万石への転封を命ぜられてもねえ、家臣が足りっこないわな、7倍の領地の所にいかなくっちゃならない。そうなると味噌屋やそば職人などとにかく読み書きできる者を片っ端から取り立て家臣としたってことらしい。その後山形最上藩からもっと大きい会津藩三十二万石へ転封となって、また家臣を引っ張って行った。ということでそば好きだった正之公や様々な職種や身分だった家臣たちから高遠のそば文化がどかどかと会津に伝わることとなったってわけで、というか伝わるどころか行っちゃったんだね。ぜーんぶ。つまり高遠町には優秀な職人とか読み書きできるような頭の良いやつはひとりも残らなかったんですよ。俺みたいな者しか残らなかった。はっはっは。」ということらしい。だから特別な写真は、ない。写真というか蕎麦に関する資料古文書なんてのは全く無い。ここにそば職人がいたという面影すら見あたらない。見事なまでにみーんな会津へ行ってしまったのだ。そして何を隠そう会津で喰った「高遠そば」の方が自分的には実にうまかった。高遠町の勇者は会津まで行って「高遠そば」を学んできて欲しい。それは恥ずかしい事じゃない。上田の蕎麦職人たちのように兵庫県出石町から皿蕎麦を里帰りさせたっていいじゃないか。それってかっこいいぞ

ハリコシ

harikosi.gif君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。『千曲川のスケッチ』は島崎藤村が小諸義塾に赴任した際、小諸を中心とした千曲川一帯の自然や人々の暮らしを鮮やかに描写した随筆。この中の、その六『山村の一夜』の一節にこの『ハリコシ』なるものが登場する。これは『梁越そば』と呼ばれる川上村の郷土食。ところがこの有名な郷土食は随筆中の「君」ばかりではなく我が身内のそばマニア達でも知らないしましてや食ったこともない。それってアレだよアレ!そば煎餅だよきっと。いやそれはそば饅頭だな。いやいやそばおやきに違いない。そこで、いくらなんでもそばマニアたるもの「ハリコシ」を知らぬわけにはいかぬぞと言うことで川上村を訪ねたのは春のことだった。かつて「北の戸隠そば」「南の川上そば」と呼ばれていたそばの産地はすでにレタス一色に染まり、かろうじて昨年はじめたらしい蕎麦屋一軒と村の施設がやっている食堂のメニューにそばがあるという程度。しかもその村の施設の食堂に入ったらそばは予約制だと言われた。しかしメニューには「土日限定名物ハリコシソバまんじゅう」があった。ハリコシソバまんじゅう?訪ねたのは土日ではなかったがなんとか喰いたいと話すといいよと言う返事をもらえた。きっとこれが「ハリコシ」!!おお!!
『山村の一夜』前出の一節の少し前に「…その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。」と、高原野菜栽培のはじまる以前の、厳しい村の様子が描かれていますが、その後「…「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺の楽しい光景なのだ。」と結ばれていることから、『梁越そば』は村人と客人たちにとっての何よりの楽しみだったことがうかがえます。とは我が友リエちゃんのお言葉なのだが、すでに「ハリコシ」は村人さえも知らない幻のソバになっていたのがううむであった。
そば粉を入れた椀に水、味噌、生姜、ねぎを入れ、軽く団子にしたら、梁を越すほどの高さまで放り上げ、椀で受け止める。これを繰り返しながら団子にし、形を整え炉端で焼くか、灰の中に入れて焼く(高く跳ね上げるうちに建物の「梁」を越えたことから「梁越そば」と呼ばれたらしい。)手で団子にするよりも放り上げて形にするほうが、中に適度な空気が含まれ硬くならないとの事。ボソボソするが味噌とショウガが結構効いていて意外とうまくて嬉しかった。そうか注文して待っているときにペチャッ!ペチャッ!と音がしていたのはきっと厨房で天井に向かって放り投げていたからなのだな。なんとオチャメな作り方だろう、いいなあ。

引抜蕎麦

軽井沢町追分は中山道と北国街道の分岐点にあたる追分宿が栄えた場所。江戸-京都-越中-加賀の食文化が交わった唯一の場所と言える。そこではきっと大名や商人たちを通じて蕎麦食の伝播もあったのかもしれない。そして「諸國道中商人鑑中山道善光寺之部」文政10年(1827)という、諸国を旅する人たちのための旅のガイドブックには、追分宿にあるそば屋が何軒か紹介されていて、商人や旅の人々に追分けのそばが人気だったことがうかがえた。ならばそこでは今も脈々と伝統の蕎麦屋がひしめきあっているのだろうと思いつつ訪ねたのはまだ雪深い2月のはじめ。訪ねると浅間山はどかんと美しくそこにあり、遠く浅間山の姿を見かけると「うまい蕎麦が喰えるぞ」と大名や旅人の心が騒いだのかもしれない。気になるのはその商人鑑で紹介されていた伊勢屋善兵衛と林屋久右衛門の今。伊勢屋は追分宿の京口にあり林屋は江戸口にあったはず。残念ながらというか当然のことのように今は跡形もない。現在宿場内の蕎麦屋は二軒。伊勢屋善兵衛の店があった場所のはす向かいに最近はじめたらしい若い蕎麦屋があって、最近始めたっていいやせっかくだからともりを注文して、厨房の蕎麦打ち名人がチラチラこちらを気にしてるのを尻目にそこの美しい看板女将としばし雑談。酒でも注文すればもっと盛り上がったがそこは二人とも分別ある大人だから。もっと知りたかったら追分宿の資料館がすぐそこにあるから行って見るといいですよと教わって資料館へ。資料館には知りたい資料らしきものはなく聞いてもさっぱり的を得た話がでない。蕎麦ですよ蕎麦、なんかこうかつて宿場の人気食だった蕎麦についての資料とかありませんかぁ?そうですかないんですかぁ!そうかないんだねとここで諦めない、そしてコンセプトを見つけるときでもとりあえず現場からなのがワタシの強みというかしつこさなので、資料の一点一点を片っ端から脳味噌がないアタマで細かく読み始めた。やっぱねえのかなぁと、いよいよめんどくさくなりながら読み始めた「加賀御三家御式家様方御宿泊日記」文化9年(1812)の中に左大臣様御泊りという項目で献上物の中に餅と一緒に引抜蕎麦の文字を発見。
hikinuki.gif発見「加賀御三家御式家様方御宿泊日記」
いやあこの時は叫んだぞ。引抜蕎麦だよ引抜蕎麦。引抜蕎麦ってのは献上する蕎麦の事を言う。「番匠作事日記」天正二年(1574)での記述では客に振る舞った蕎麦を「ソハキリ」と言っているのだ。「引抜蕎麦」かあ、それって挽きぐるみの事じゃないのか?当時の技術で一番粉に近かったんだろうかさて。そんな「引抜蕎麦」の記述がある古文書を学芸員も知らずにいたし、というかきっと古文書を展示してあっても読んだ事がないのだろう。それにしても展示パネルの記述年号とひっくり返して見た表紙の年号が違っていたのは何故か?写真をとってもいいですか?と学芸員に聞くと「研究者か学者じゃなければだめだ」と信じられないようなお言葉をおっしゃるし・・・。自慢じゃないが蕎麦のマニアなんてさ百姓には見えてもどうみても学者様には見えない。弱っちゃったなぁ。「ふむ、ワシは植物としてのソバから食物としての蕎麦つまり食文化としての蕎麦までを含めた蕎麦の研究をしている者で地球上の最古の栽培食物であるソバはもしかしたら地球上の最後の食物になるかもしれないという仮説たてながら医学としてのソバの可能性も捨てきれず日々悩んでおる者だ。オッホン」そう言ったら疑り深い目で睨み付けたのでウンチクをひとつふたつ。すると態度がコロリと変わった。
iseya.gifhayasiya.gifおなじみ「諸國道中商人鑑中山道善光寺之部」こんなのをぶら下げながら気ままなスケッチ旅行にでかけたいものだ。

ふつう盛り550円

書くといって書かなかった「草笛」の蕎麦。今回温泉に入る前に立ち寄ったのでそろそろ書く時期なのかと。その蕎麦の量たるや「刀屋」を上回ったというべきか、ううむ。いい勝負だなあと思った。ふつう盛りで高さ8ンチぐらいの桶(なんと桶!なんと箸が立つ!)にたっぷり入って驚愕の550円!桶とは実に恐れ入りました。刀屋では箸をつけたとたんに砂山が崩れるように蕎麦がこぼれてその蕎麦を拾うことに気が散ってしまったが、この「桶」とはなかなかいいアイデアだと思った。ありがとう。そして刀屋より軟らかめでそれもありがたかった。これで550円!。実はその前前日仕事で古文書を探しにとある宿までいった時にそば屋で喰ったそばもついでに披露します。姉さんが美人だったのと、色々お話を聞かせてくれたのでとやかくは言いません。まあこれがそこいら辺の「蕎麦屋の蕎麦」の平均値だと思います。これで900円ちょっとだったかなあ。ううむそれを考えると「草笛」って太っ腹なんだね。地産地消ということで信州産蕎麦粉を使い三割のつなぎ。いわゆる七割蕎麦。ここで賢明な人は「なんだ七割蕎麦かあ、二八とか十割じゃないんだコノヤロ」と言うのかもしれません。そこで質問!・・・日本で今一番売れている蕎麦の乾麺や生麺の蕎麦粉の割合はどのくらいか知っていますか?知ってるわけないよね。実は七割または六割なんだそうで、八割蕎麦にすればもっと売れるのかと思って八割蕎麦にすると不思議ととたんに売れなくなるそうです。たぶん日本人の食生活の中ではラーメンの比重が大きくその独特の食感の影響らしい。確かに十割蕎麦って・・・。
sobaya.gifそこいらへんの蕎麦屋のそばはまあこんなもん。ふつう盛り900円。もちろん食べる前の写真です。
kusabue1.gif高さは8センチの桶に入って、これでふつう盛り550円。上げ底ではありません。喰っても喰ってもなかなか底が出てこなかった。
kusabue2.gif台よりも広げすぎて向こう側に折れちゃっている。一回で28人分打つとか言ってた。目の前で打ってるとウレシイよね。安心。

55パーセント

nosi.gifkiri.gif年越しそばの粉はいつものようにごへいさんから譲ってもらったが、今年は親戚から地粉のそば粉をもらったのでそれも試しに打ってみた。いつもの調子で水を47パーセントにしたら大変なことになってしまい汗をたらし泣きながら捏ねたので腰がボロボロになった。粉に水分がなかったのだ。後で聞くとまだ青いときに刈って製粉したものらしい。仕事で毎年9月の第一日曜日には北海道産の早刈りした青いそば粉で打ったものを食べさせてもらっているが青いそばは確かに葉緑素の味がしてクセにはなる。しかしこんなに捏ねが大変だとは思わなかった。そば粉を持ってきてくれた人が言うにはいつも使う水の量は55パーセントらしい。えっ?55パーセント???んなバカな。目が点になった。…そうか。
友人の声をたよりに打った年越しそば。あのさ、水まわしでほぼ決まるね、それから…巾は70センチがいいよね。…のし棒、直そうかなあ。