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高遠そば
- 2008年12月11日 19:05
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さて、いつも困るのが高遠そばだ。「そば博物館」の時も「信州蕎麦の源流と伝播そして未来展」を企画した時もこの高遠そばはぜひとも取り上げたい、というか伝播というところで絶対外せない蕎麦なのである。なぜなら、福島県の会津地方には「高遠そば」と呼ばれるそばがある。このそばは、つゆに焼き味噌と辛み大根とネギが入るのが特徴で「高遠そば」と呼ばれる由来は、信州高遠城で暮らした保科正之公が転封で入った会津藩へ高遠のそばを伝えたためと言われており、高遠の一部に伝わる「辛つゆそば」が原型なのである。しかし「そば博物館」企画当時は高遠そばなる蕎麦は高遠町には無いのであった。(今はかろうじて有志が高遠蕎麦を盛り上げようと数軒ある)そこで博物館の時は避けていたが「信州蕎麦の源流と伝播そして未来展」の時は伝播というキーワードがあるので取り上げないわけにはいかなかった。弱っちゃったなあまったく。時は少し過ぎていたし情報としては町の温泉施設を退職したご主人が自宅を改装して高遠そばなるものの復権に情熱を注いでいるという話を聞く程度だったので適当にサラッとお茶を濁して「高遠藩主保科正之公が転封で入った会津藩へ高遠のそばを伝えた」ぐらいに押さえておくしか無かった。いったい本家の高遠の蕎麦職人達はどこへ行ってしまったのか。かつて高遠は領地の一部がそば切り発祥の地とされる本山宿に接していたり、領地内の入野谷がそばの名産地として知られていたことなど高いそば文化が育まれる背景があったがその高いそば文化はどこに行ってしまったのか。川上村の蕎麦のように高原作物に取って替わったのとは少しわけが違うような気がしていた。
それを見事に教えてくれた人がいる。その人に迷惑がかかると困るのであえて名前は言わないがこういう説だ。「あのね、まず保科正之さんは山形最上藩二十万石を与えられた時困っちゃったんだね。ほら高遠は三万石しかないでしょ。その三万石から二十万石への転封を命ぜられてもねえ、家臣が足りっこないわな、7倍の領地の所にいかなくっちゃならない。そうなると味噌屋やそば職人などとにかく読み書きできる者を片っ端から取り立て家臣としたってことらしい。その後山形最上藩からもっと大きい会津藩三十二万石へ転封となって、また家臣を引っ張って行った。ということでそば好きだった正之公や様々な職種や身分だった家臣たちから高遠のそば文化がどかどかと会津に伝わることとなったってわけで、というか伝わるどころか行っちゃったんだね。ぜーんぶ。つまり高遠町には優秀な職人とか読み書きできるような頭の良いやつはひとりも残らなかったんですよ。俺みたいな者しか残らなかった。はっはっは。」ということらしい。だから特別な写真は、ない。写真というか蕎麦に関する資料古文書なんてのは全く無い。ここにそば職人がいたという面影すら見あたらない。見事なまでにみーんな会津へ行ってしまったのだ。そして何を隠そう会津で喰った「高遠そば」の方が自分的には実にうまかった。高遠町の勇者は会津まで行って「高遠そば」を学んできて欲しい。それは恥ずかしい事じゃない。上田の蕎麦職人たちのように兵庫県出石町から皿蕎麦を里帰りさせたっていいじゃないか。それってかっこいいぞ
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ハリコシ
君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。『千曲川のスケッチ』は島崎藤村が小諸義塾に赴任した際、小諸を中心とした千曲川一帯の自然や人々の暮らしを鮮やかに描写した随筆。この中の、その六『山村の一夜』の一節にこの『ハリコシ』なるものが登場する。これは『梁越そば』と呼ばれる川上村の郷土食。ところがこの有名な郷土食は随筆中の「君」ばかりではなく我が身内のそばマニア達でも知らないしましてや食ったこともない。それってアレだよアレ!そば煎餅だよきっと。いやそれはそば饅頭だな。いやいやそばおやきに違いない。そこで、いくらなんでもそばマニアたるもの「ハリコシ」を知らぬわけにはいかぬぞと言うことで川上村を訪ねたのは春のことだった。かつて「北の戸隠そば」「南の川上そば」と呼ばれていたそばの産地はすでにレタス一色に染まり、かろうじて昨年はじめたらしい蕎麦屋一軒と村の施設がやっている食堂のメニューにそばがあるという程度。しかもその村の施設の食堂に入ったらそばは予約制だと言われた。しかしメニューには「土日限定名物ハリコシソバまんじゅう」があった。ハリコシソバまんじゅう?訪ねたのは土日ではなかったがなんとか喰いたいと話すといいよと言う返事をもらえた。きっとこれが「ハリコシ」!!おお!!
『山村の一夜』前出の一節の少し前に「...その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。」と、高原野菜栽培のはじまる以前の、厳しい村の様子が描かれていますが、その後「...「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺の楽しい光景なのだ。」と結ばれていることから、『梁越そば』は村人と客人たちにとっての何よりの楽しみだったことがうかがえます。とは我が友リエちゃんのお言葉なのだが、すでに「ハリコシ」は村人さえも知らない幻のソバになっていたのがううむであった。
そば粉を入れた椀に水、味噌、生姜、ねぎを入れ、軽く団子にしたら、梁を越すほどの高さまで放り上げ、椀で受け止める。これを繰り返しながら団子にし、形を整え炉端で焼くか、灰の中に入れて焼く(高く跳ね上げるうちに建物の「梁」を越えたことから「梁越そば」と呼ばれたらしい。)手で団子にするよりも放り上げて形にするほうが、中に適度な空気が含まれ硬くならないとの事。ボソボソするが味噌とショウガが結構効いていて意外とうまくて嬉しかった。そうか注文して待っているときにペチャッ!ペチャッ!と音がしていたのはきっと厨房で天井に向かって放り投げていたからなのだな。なんとオチャメな作り方だろう、いいなあ。
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引抜蕎麦
- 2008年4月14日 11:09
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軽井沢町追分は中山道と北国街道の分岐点にあたる追分宿が栄えた場所。江戸-京都-越中-加賀の食文化が交わった唯一の場所と言える。そこではきっと大名や商人たちを通じて蕎麦食の伝播もあったのかもしれない。そして「諸國道中商人鑑中山道善光寺之部」文政10年(1827)という、諸国を旅する人たちのための旅のガイドブックには、追分宿にあるそば屋が何軒か紹介されていて、商人や旅の人々に追分けのそばが人気だったことがうかがえた。ならばそこでは今も脈々と伝統の蕎麦屋がひしめきあっているのだろうと思いつつ訪ねたのはまだ雪深い2月のはじめ。訪ねると浅間山はどかんと美しくそこにあり、遠く浅間山の姿を見かけると「うまい蕎麦が喰えるぞ」と大名や旅人の心が騒いだのかもしれない。気になるのはその商人鑑で紹介されていた伊勢屋善兵衛と林屋久右衛門の今。伊勢屋は追分宿の京口にあり林屋は江戸口にあったはず。残念ながらというか当然のことのように今は跡形もない。現在宿場内の蕎麦屋は二軒。伊勢屋善兵衛の店があった場所のはす向かいに最近はじめたらしい若い蕎麦屋があって、最近始めたっていいやせっかくだからともりを注文して、厨房の蕎麦打ち名人がチラチラこちらを気にしてるのを尻目にそこの美しい看板女将としばし雑談。酒でも注文すればもっと盛り上がったがそこは二人とも分別ある大人だから。もっと知りたかったら追分宿の資料館がすぐそこにあるから行って見るといいですよと教わって資料館へ。資料館には知りたい資料らしきものはなく聞いてもさっぱり的を得た話がでない。蕎麦ですよ蕎麦、なんかこうかつて宿場の人気食だった蕎麦についての資料とかありませんかぁ?そうですかないんですかぁ!そうかないんだねとここで諦めない、そしてコンセプトを見つけるときでもとりあえず現場からなのがワタシの強みというかしつこさなので、資料の一点一点を片っ端から脳味噌がないアタマで細かく読み始めた。やっぱねえのかなぁと、いよいよめんどくさくなりながら読み始めた「加賀御三家御式家様方御宿泊日記」文化9年(1812)の中に左大臣様御泊りという項目で献上物の中に餅と一緒に引抜蕎麦の文字を発見。
発見「加賀御三家御式家様方御宿泊日記」
いやあこの時は叫んだぞ。引抜蕎麦だよ引抜蕎麦。引抜蕎麦ってのは献上する蕎麦の事を言う。「番匠作事日記」天正二年(1574)での記述では客に振る舞った蕎麦を「ソハキリ」と言っているのだ。「引抜蕎麦」かあ、それって挽きぐるみの事じゃないのか?当時の技術で一番粉に近かったんだろうかさて。そんな「引抜蕎麦」の記述がある古文書を学芸員も知らずにいたし、というかきっと古文書を展示してあっても読んだ事がないのだろう。それにしても展示パネルの記述年号とひっくり返して見た表紙の年号が違っていたのは何故か?写真をとってもいいですか?と学芸員に聞くと「研究者か学者じゃなければだめだ」と信じられないようなお言葉をおっしゃるし・・・。自慢じゃないが蕎麦のマニアなんてさ百姓には見えてもどうみても学者様には見えない。弱っちゃったなぁ。「ふむ、ワシは植物としてのソバから食物としての蕎麦つまり食文化としての蕎麦までを含めた蕎麦の研究をしている者で地球上の最古の栽培食物であるソバはもしかしたら地球上の最後の食物になるかもしれないという仮説たてながら医学としてのソバの可能性も捨てきれず日々悩んでおる者だ。オッホン」そう言ったら疑り深い目で睨み付けたのでウンチクをひとつふたつ。すると態度がコロリと変わった。

おなじみ「諸國道中商人鑑中山道善光寺之部」こんなのをぶら下げながら気ままなスケッチ旅行にでかけたいものだ。
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ふつう盛り550円
- 2008年2月14日 11:05
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書くといって書かなかった「草笛」の蕎麦。今回温泉に入る前に立ち寄ったのでそろそろ書く時期なのかと。その蕎麦の量たるや「刀屋」を上回ったというべきか、ううむ。いい勝負だなあと思った。ふつう盛りで高さ8ンチぐらいの桶(なんと桶!なんと箸が立つ!)にたっぷり入って驚愕の550円!桶とは実に恐れ入りました。刀屋では箸をつけたとたんに砂山が崩れるように蕎麦がこぼれてその蕎麦を拾うことに気が散ってしまったが、この「桶」とはなかなかいいアイデアだと思った。ありがとう。そして刀屋より軟らかめでそれもありがたかった。これで550円!。実はその前前日仕事で古文書を探しにとある宿までいった時にそば屋で喰ったそばもついでに披露します。姉さんが美人だったのと、色々お話を聞かせてくれたのでとやかくは言いません。まあこれがそこいら辺の「蕎麦屋の蕎麦」の平均値だと思います。これで900円ちょっとだったかなあ。ううむそれを考えると「草笛」って太っ腹なんだね。地産地消ということで信州産蕎麦粉を使い三割のつなぎ。いわゆる七割蕎麦。ここで賢明な人は「なんだ七割蕎麦かあ、二八とか十割じゃないんだコノヤロ」と言うのかもしれません。そこで質問!・・・日本で今一番売れている蕎麦の乾麺や生麺の蕎麦粉の割合はどのくらいか知っていますか?知ってるわけないよね。実は七割または六割なんだそうで、八割蕎麦にすればもっと売れるのかと思って八割蕎麦にすると不思議ととたんに売れなくなるそうです。たぶん日本人の食生活の中ではラーメンの比重が大きくその独特の食感の影響らしい。確かに十割蕎麦って・・・。
そこいらへんの蕎麦屋のそばはまあこんなもん。ふつう盛り900円。もちろん食べる前の写真です。
高さは8センチの桶に入って、これでふつう盛り550円。上げ底ではありません。喰っても喰ってもなかなか底が出てこなかった。
台よりも広げすぎて向こう側に折れちゃっている。一回で28人分打つとか言ってた。目の前で打ってるとウレシイよね。安心。
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55パーセント
- 2008年1月 4日 11:03
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年越しそばの粉はいつものようにごへいさんから譲ってもらったが、今年は親戚から地粉のそば粉をもらったのでそれも試しに打ってみた。いつもの調子で水を47パーセントにしたら大変なことになってしまい汗をたらし泣きながら捏ねたので腰がボロボロになった。粉に水分がなかったのだ。後で聞くとまだ青いときに刈って製粉したものらしい。仕事で毎年9月の第一日曜日には北海道産の早刈りした青いそば粉で打ったものを食べさせてもらっているが青いそばは確かに葉緑素の味がしてクセにはなる。しかしこんなに捏ねが大変だとは思わなかった。そば粉を持ってきてくれた人が言うにはいつも使う水の量は55パーセントらしい。えっ?55パーセント???んなバカな。目が点になった。...そうか。
友人の声をたよりに打った年越しそば。あのさ、水まわしでほぼ決まるね、それから...巾は70センチがいいよね。...のし棒、直そうかなあ。
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上田藩村明細帳
- 2007年8月12日 11:00
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宝永三年(1706年)、上田藩主だった仙石氏が出石へ転封となり、松平氏が新しい藩主となった。これと同時に、領内全村から今の「村勢要覧」のような帳面が一村一冊提出され、「上田藩村明細帳」として編纂された。これは「宝永差出帳」ともいわれ八十六冊ある。原本はすでになく、藩の役人による寛永三年(1791年)の写しが存在するのみ。年貢、用水、橋、戸数、人口(どこどこの村にへ出稼ぎに行くとか)、馬の数(雌何頭雄何頭とか)、職人、寺社、稲の種類、作物(こやしは何を使っているとか)、薪...など、江戸時代前半の藩領の中身をすべて網羅するこのようなものは全国的にも例がなく、広く国内で利用される重要資料となっている。この中の、畑作毛を記した部分には、藩領内の多くの村の記述に大豆や稗、黍、大麦、小麦などといっしょに「蕎麦」と記されており、少なくとも上田藩の地域では蕎麦栽培が盛んだったようだ。転封となった仙石氏が出石まで上田のそば職人を連れていったという逸話も、納得できる資料。で、上田の「草笛」というそば屋に行って来たと言う話はまた後日。刀屋と同じ轍は踏まなかったが...ううむ。
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お見事としか言いようが無い「刀屋」の蕎麦
- 2007年8月 3日 10:58
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上田藩村明細帳についてはまた後日ということになるが、先日その明細帳を見る機会があって上田市の図書館と博物館を訪ねた帰りせっかくだからと以前 WEBの先生kodamaさんが観光の人は「おお西」だけど地元の人は「刀屋」と言っていたのを覚えていたので、いや「草笛」だったかな?まあ「刀屋」だ。と案内所でもらった観光パンフレットを見ながら捜して暖簾をくぐった。「もり一枚」「はいもり一枚」。本当は腹が減っていたので大盛りでと思ったが始めての店ではまず普通、これが定番だからなと決めた。しばらくしてテーブルに置かれたのがこれ。「おお!おお!いや。俺の?ほんと?大盛りを頼んだ覚えは無いのだが...これ。普通?ホント?いや。あの。え?」そう、これが刀屋の普通もり一人前の量。上げ底ではありません。お上品なお蕎麦屋さんの三倍の量で値段はお上品なお蕎麦屋さんの半額600円。問題はうまさだがそこそこの味。というかもう胃が痙攣しちゃって味どころではなかった。
はしをつけるともう砂山みたいに山のように盛られた蕎麦が崩れ落ちてしまうのでその度にテーブルに崩れ落ちた蕎麦を拾うのに必死だった。いやあ大変だった。これは普通だけど大盛りは1キロあるらしい。女性でも大盛りをたいらげる強者がいるよとレジの姉さんが話してくれた。上田藩の末裔恐るべし。
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本日の切り口
- 2006年12月25日 17:36
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本日の切り口...というのを亡き友はブログに載せていた。そば粉何グラム打ちならそば切り何本というそばの本数まで決めていてそれが打てるやつだった。教えてもらったそば打ちは俺の腕にどれだけ残されているのか、一周忌が過ぎてもそばを打つ気になれなかったが久しぶりに形見の品を出し工程ごと思い出しながらそばを打ってみた。「こうやってやってみたら」とか「こうやればきっとうまくできるよ」とか何十回言われてもなかなかできなかったことは今ももちろんできていない。時間はあの時に止まったまま、ヘタクソなままだ。まあゆっくり教えてくれよ、定年後三人で店をかまえるまでには覚えておくからさと返事をしていた昨年の秋、突然その親友二人が同じ月に亡くなってしまった。打ち台は木工家Fの作、駒板と包丁は眼鏡屋H作。木工家Fは不器用な俺のために「先生、おれがいいやつ作ってやるでさ打ちやすい台の寸法書いてけよ」といいながら丁寧に作ってくれたし、眼鏡屋Hは「駒板たくさん作ったからこれやる、包丁は切れなくなったら持ってくればいつでも研いでやるから俺が作ったのだけど持ってって。これくらい重くなくっちゃうまく切れないんだよね」「麺棒だけは絶対自分で作った方が良いから作り方教えてあげる」そういいながら駒板と包丁を分けてくれた。本日の切り口...みっともないですがまあ今の実力はこの程度しかありません。ちょっとのし過ぎたようです。というかのしが平均でない。
「ハハハこんなにのしすぎちゃダメだよ。のしもなんか平均してないからフワフワしたはかないそばにならないよ。でもまあいいか。ハハハ」「あのさ、ただのしてんじゃなくて横幅何センチとか縦何センチって決めておけばそのうちできるようになるよ」という言葉が聞こえてきました。仕事で二年かけて作り上げたそばの博物館が開館したとき真っ先に飛んできてくれた時の自分の事のように自慢してた顔、悩みながら立ち上げた「信州蕎麦の源流と伝播そして未来展」の会場にも足を運んでくれて入り口で写真を撮った時の嬉しそうな顔を思い出します。「腹一杯食ったぞ、うまかったなあ」とFも実に良い顔をしていました。二人ともありがと。俺はまだまだ不器用なままだよ。
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「善光寺道名所図会」
- 2006年11月20日 20:00
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1843年(天保14年)「善光寺道名所図会」という本の中に「蕎麦切りの特に佳品と賞するは、第一に戸隠、第二に相木、第三に三原なり」と掲載されている。と戸隠観光課のホームページや蕎麦関係の本に載っている。しかしどれも同じような言葉で書いてあるのがどーも腑に落ちない。この手の古文書の文献云々は最初の人が発表するとその本を読んだ人が自分のものとしてさも自分で調べたように書いてしまうといった困った問題がある。まあいいんだけど...。笑い話だが、何々参照とか誰かさんの本からの抜粋云々のみで丸々一冊本ができあがってしまうこともあるらしい。蕎麦関係の本を読んでいるとそんなのばっかりだ。そこで、ホント?じゃどんなふうに書かれてんの?といつものように自分のこの目で確かめたい衝動にかられてしまったのが今回の話です。ということで、県立歴史館に行って「善光寺道名所図会」ってやつを見たいんだけどありますか?(読みたいのではなく見たいだけ)と言うと学芸員さんが「善光寺道名所図会」って本は一巻から五巻まであって今特別展で展示してあるので二冊しかここには無いんだけど何調べるの?「蕎麦切りの特に佳品と賞するは、第一に戸隠、第二に相木、第三に三原なりって戸隠のそばについて書いてあるらしいけどその箇所です」じゃ戸隠の巻だね、よかった戸隠の事を書いてある四巻は今ここにあるよ。ということで学芸員さんと二人で古文書を読み出した、が、どこにもそんな箇所は無いのだった。(古文書は読めないが蕎麦という文字ぐらいわかるさ!)「無いね」「ううむ、無いなあ」「この善光寺道名所図会の事どこに書いてあったの?」「戸隠の観光課のホームページとかパンフとか」「なら戸隠の教育委員会に聞けば良い」「そうしようかなあ、この戸隠のページ全部写真を撮っても良い?」というわけで、翌朝写真をプリントアウトして戸隠へ向かった。
合併して長野市になった戸隠の役場には観光課しかなくそこで質問「あの、1843年(天保14年)「善光寺道名所図会」という本の中に「蕎麦切りの特に佳品と賞するは、第一に戸隠〜」と掲載されていると戸隠観光課さんの作られているホームページに載っているのでそれを見たくて県立歴史館で「善光寺道名所図会」を見てきたんですけど、その文章ってやつがどこにも書かれていないので、まあ実際古文書は苦手(読めない)なのでもしご存知でしたらどの箇所か教えていただきたいのですが...ここに本の写真を持ってきたので教えてください」そうお聞きしたところ、返事は「パンフレットに書かれていた事をホームページに載せましたがそのパンフレットも再版再版で疑う事無く以前と同じように書いてきたので私にはわからない」という事だった。戸隠の古文書に詳しい方が近くにいるのでその方に聞いてくれないか?という。で先日の「奥院燈明役勤方覚帳」に行き着く。
「善光寺道名所図会」
古文書の先生は忙しいお方で結局会えなかったが戸隠蕎麦に関する古文書の先生の書かれた文章を読む機会があった、がそのどこにも「善光寺道名所図会」の事に触れる文は無かった。
展示してあって見る事ができなかった一巻とかにあるのかなあ。
------後日談-------
「ありましたよ!5巻の付録についていました。」というkodamaさん(マックの先生)からのコメントがありました。kodamaさんありがとう。付録ってのが実にイイ。当時「付録」という考え方があったんですね。「付録」についてはなぜか心惹かれるものがあるのでまた報告します。
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「奥院燈明役勤方覚帳」
- 2006年11月 8日 19:40
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いい天気だったので戸隠村の新蕎麦を食べつつ「そばきり」が祭礼時に振舞われたと掲載されている(宝永6年)「奥院燈明役勤方覚帳」を見てきた。戸隠は高野山・比叡山と並ぶ日本三大霊場の一つとして、修験道の修行時、唯一携行が許されたのがそばだった事などから戸隠大権現への献上物として「ハレ」の特別な料理としての性格を持っていたらしい、当時の庶民はそばがきやそばせんべいを食っていたとか。その「そばきり」は遠くから訪れた貴人をもてなしたり戸隠講の「おもてなし」として徐々に一般的なもてなしの料理へと変遷していく。当時の奥院は女人禁制で、在家の男性たちがそばを打っていたようです。祭礼の日、餅の入ったお吸い物、栗やあげものの小鉢、湯豆腐...など、今食べてもおいしそうなごちそうと一緒にソバが振る舞われていることを見ても、そばがハレの日の食だったことがよくわかります。
この「奥院燈明役勤方覚帳」を見に行くその前日に1843年(天保14年)「善光寺道名所図会」という本の中に「蕎麦切りの特に佳品と賞するは、第一に戸隠、第二に相木、第三に三原なり」と掲載されているらしいということで、昨日県立歴史館に行って「善光寺道名所図会」ってやつを調べたところ...。意外な事がわかり急きょ「奥院燈明役勤方覚帳」を見に行ったという話はまた後日。
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定勝寺番匠作時日記
- 2006年8月10日 11:31
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三年前のこと。「信州蕎麦の源流と伝播そして未来展」を企画するために、なんとかして見たい古文書があった。それは木曽の名刹定勝寺に残されているらしい日本最古のそばきりという文字が書かれた日記。ここは木曽福島から南に下った木曽郡大桑村にある臨済宗妙心寺派の名刹。慶長三年(1588年)に再建された安土桃山様式の総檜造りの伽藍は、国の重要文化財に指定されている見事なもの。平成四年に発見された「番匠作事日記」には天正二年(1574年)に仏殿を修理工事した際「振舞ソハキリ 金永」と記されており、そば切りを振舞った記録が残っていた。これにより、それまで日本最古のそばの記録だった尾張一宮の妙興寺の「蕎麦覚書」(1608年)を「番匠作事日記」(1574年)が更新。そば切り最古の記録が中仙道沿いで相次いで発見されたことは興味深く、定勝寺で豪華な京風の伽藍を作ったことなどからも、山深い木曽のこの地に京文化が盛んに伝播していたことがうかがえ知れた。仏殿修理にそば切りを振る舞ったということは戦国時代からそば切りがハレの食だった証、これだけ流通や食文化が発達した現代でもかわらずハレの食の役目を果たすそばの味は普遍的な美味さといえる。
この古文書にまつわる話をひとつふたつ。
住職に番匠作時日記を見たいのですがと話したところ「実は発見された古文書を平成四年に古文書関係者達が調べているうちに紛失してしまったらしく、私の手元には私が記念に簡単に撮っておいた写真が一枚しかないのです。またこのネガもすでになく途方に暮れています」と言って、見せてくれたのは、もう画像が変色して文字も読めない薄い一枚の写真だった。この事件は新聞にも取り上げられた事がある。そうか、じゃもうこれしかないのかと観念しないところが私のしたたかなところで、とても感じのいい住職だし、紛失した彼らを責めているという感じも受けなかったのでなんとかしたかった。さっそく古文書関係書や県立歴史館を訪ねる日々が続きようやく県立歴史館の資料室の中に数枚の写真が残されているらしい事がわかった。で再び調べにいっても「それはない。倉庫の中を全部探すのは無理」の一点張り。そうこうしながら日は過ぎていくし。何とかならないものかと信州大学名誉教授氏原さんに相談すると「まかせなさい!田中のやっちゃんに話してみるよ」という返事の後折り返し電話があり「明日、歴史館にいけば撮影できるようにしといたから行きなさい」という事だった。あわてて行くとなんと、当時撮影した「番匠作事日記」すべての写真が机の上に広げられていた。必要な部分のみという約束だったがもちろん全てを撮影しましたよ私は。なぜなら住職に全てを渡したかったからな。もともと住職のものを住職に返して何が悪いものか。住職に渡しにいくと、とても喜んでくれた。「歴史館にも行って聞いたんだが、何もないとしか言われなかったのであきらめていた」とのことだった。
これ以外にも、え?と思うこうのような古文書の裏話はある。またいつか話したいと思う。
「振舞ソハキリ 金永」って読めるかな
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オトコの最終目標
- 2006年8月 9日 10:50
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信濃町の一茶記念館を訪ねた、一茶とそばについては色々みなさん知っているんだし今更と思ってはいたのだが、一茶直筆のものを見たかった。学芸員の方はさすがですね。もう私が「そば...」と言っただけでスラスラと句が出てきちゃうんですね。これは七番日記の中にあるとかこれは八番日記だとか。そこで有名な『おらが春』などを見せていただいた。『おらが春』は「目出度さもちう位なりおらが春」ではじまる文政2年(1819)のもの。この頃長女さとの誕生と死で一茶は人生の絶頂と地獄を味わっていた。三歳で母を亡くした淋しさは「我と来てあそべや親のない雀」など代表句となっているが、親族との軋轢や火事など、苦労尽きない生涯だったらしい。
焼けだされた一茶が終の住処とした土蔵は今も信濃町柏原にあって、この土蔵を眺めていたら近所の人が寄ってきてこういった「四間半四間半って知ってるか?一茶と弟が九間あった家を真ん中に壁を作って遺産分けしたって事だ。」なるほど兄弟の軋轢ってすごかったんだなと思ったが、それでもそうやってまで暮らせるものなのかと時代背景に思いを巡らせた。
(「おのが味噌のみそ臭さをしらず」と前書し)「蕎麦国のたんを切りつつ月見哉」は「手前味噌な話だけれど、おらがそばは日本一と自慢しながら月見するぞ」という一茶らしい句を『おらが春』の中で見つけて写真を撮らせていただいた。一茶の日記の直筆ってものすごく細かい筆文字で丁寧に綴じられ几帳面であった事がうかがい知れた。写真ではわかりにくいがこの七番日記の写真は五ミリ升(実際は升目なんてないけど)に句が整然と書かれていた。五センチ十センチぐらいのノート。実際見ればその小ささと細かさに圧倒する。
「故郷信濃町は霧下そばの産地ですから、あながちこれは手前味噌でもありません。蕎麦時や月の信濃の善光寺。国がらや田にも咲かせるそばの花。など一茶のそばの句はたくさんありますが、「おらがそば」は一茶の不遇な生涯でいつも慰みだったことでしょう...とは我が友リエちゃんの言葉。
オトコの最終目標は「ソバ打ち」らしい。...なるほど。
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長柱花と短柱花
- 2006年8月 2日 10:43
- ソバメモ

そばの花には長柱花と短柱花の二種類がある。長柱花は短柱花と受粉し、短柱花は長柱花と受粉した場合にのみ実をつける。つまり長柱花同士や短柱花同士、又一つの花の中のめしべとおしべでは実を結べない。これでは受粉の効率が悪いけれども、異なる遺伝子を入れることで環境の変化に対応しやすくしている。
写真ではめしべが短くおしべが長い短柱花であることがわかります。また昆虫が大好きな蜜腺も見ることができる。
受粉の瞬間
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F.cymosum
- 2006年8月 1日 20:25
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そばの博物館の庭で咲いたソバの野生祖先種Fagopyrum.cymosum(宿根ソバ)の花の写真
今から約60万年前、種子が大きなグループのひとつであったこの F.cymosum (宿根ソバ)から、F. esculentum ssp.ancestralis(普通そば野生祖先種)やtataricum ssp.Potanini(ダッタンそば野生祖先種)などの祖先野生種が誕生した。この宿根ソバは信州大学農学部の畑で栽培されていたものを譲っていただいたもの。ソバの野生祖先種については京都大学の大西教授から色々お聞きしたのでそのうち書きます。
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ダッタンソバの種子
- 2006年8月 1日 20:21
- ソバメモ

博物館の中のそばの温室で育ったダッタンソバの種子。貴重な写真。(個人的に)タデ科の1年草。栽培種。主にシベリア、中央アジア、中国西部、ヒマラヤなど海抜1000〜1500m以上の高地で栽培されている。種実は普通そばより小さく丸味を帯びており、花は淡緑色。普通そばと異なり自家受粉を行なう。種実に有効成分であるルチンが豊富に含まれている。
もうひとつこれは成長過程の貴重な写真。ただし普通そば。この写真でポストカードを作ろうかと考えていたが、断念。
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そばの種子
- 2006年7月21日 20:15
- ソバメモ
そば博物館をディレクションしてから、もう二年が過ぎた。そのへんの話を、デザインの立場で進めようかと思う。これはデザイン論でもある...、かも。といいつつ時は過ぎた。そしてなにもかわらないまま過ぎていくのもなんかなあ、というわけでブログ再会。
発芽直後の種子の縦断面
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